「動物化するポストモダン」感想。あと評論読めなかった僕がつまづいていたポイント

動物化するポストモダン東浩紀, 2001)読みました。

以下、ページ番号は文庫版に依ります。

感想

ポストモダンとは、僕の理解だと「みんなが共有できる価値観や目的がなくなってしまった時代」だと思っています。本書ではこれを「大きな物語の凋落」とか、「超越性の凋落」と呼んでいます。本書は、ポストモダン社会の特徴がよく現れている「オタク系」に焦点を絞って論じています。オタク系サブカルチャーは「大きな物語の凋落」を補填するために70年代以降は必要とされましたが、現代(この評論が書かれたのは2001年)では大きな物語の凋落を補填する必要などはオタクは感じていないと筆者は主張しています。キャラクターで萌えを楽しみ、萌え要素の一つであるメロドラマで感動したり泣いたりして欲求を満たす刹那的な生き方(本書ではこれを動物的と表現している)が、現在のオタク系の人々だと述べています。つまり、「大きな物語が凋落」したポストモダン社会において、人々は「動物化」すると述べています。「これが、(中略)『ポストモダンでは超越性の概念が凋落するとして、ではそこで人間はどうなってしまうのか』という疑問に対する、現時点での筆者の答えである。」(pp.140-141)

僕の理解をざっくりまとめると以下のようになります。高度経済成長が終わっていっぱい働いたらそれだけ人生が良くなるという価値観が一般的じゃなくなった時(大きな物語の凋落)、例えばガンダムの世界に詳しいことがすごいと感じられる人たちが集まり、その作品の背後に描かれる世界観などを語り合うことでその状況に耐えてきました(大きな物語の凋落の補填)。しかし、現代のオタク系の人々には大きな物語など関係なく、萌えや泣きなどで刹那的に欲求を満たして生きるようになっています(動物化)。そしてこの動物化ポストモダンを生きる人間の姿だと筆者は述べています。

この本を読みながら、僕は3年前にシンガポールに行ったことを思い出していました。ある大学が行っているスタディツアーのようなもので、中国、台湾、香港、フィリピンなどから同年代の学生が参加していました。ツアー中、仲良くなった彼らに将来どうしたいのか聞いたところ、「自分が学んでいることを活かして就職したい」というはっきりした意見が聞けて、とても驚きました。日本人の友人に同じ質問をした時は、「分からない」「楽しく生きたい」「面白いことがしたい」という抽象的な答えが返ってくることが常だったからです。あるいは、具体的な「大学院で数学を専攻してアクチュアリーになる」といった回答の場合でも、まずはじめに「僕にとって幸福とは、ある程度金銭的に豊かで安定した暮らしをすることだから」という抽象度の高い前提を述べてからの回答でした。日本以外のアジア人である彼らは、まだ「専攻を活かして就職することは成功だ」という大きな物語を維持できていたのでしょうか。 彼らの生きる世界に「きちんと働いてお金を稼ぐことは成功だ」という大きな物語があれば、彼らは仕事でもうまくいくんじゃないかなと思います。僕の観察した限り、仕事でうまく行っている人は仕事をする価値を疑っていない人です。「この仕事をまじめに続けていても『楽しく生き』られるのだろうか、『面白いことが』できるのだろうか」といったことを疑う必要もなく働ければ、仕事もうまく行きやすいでしょう。

一方で、僕の日本人の友人には「動物化」している人もいればしていない人もいます。「動物化」している人のほうがうまくいっている気がします。刹那的に欲求を満たし、その現状を肯定的に捉えて、残ったエネルギーを継続的に現状を維持するために投資する、という生き方なのでしょうか。「動物化」していない人々、つまり、「大きな物語」がない中で、自分がどう生きるべきか苦悩している人は、何事にも集中できずに崩れていっている気がします。特に、能力としては非常に優秀で、それゆえに「生きる目的」なんかに正面から悩んでしまうような人に多い気がします。ポストモダン社会では人生の苦悩に正面から向き合うことなく、「動物化」して欲求と刹那的な充足のサイクルに身を委ねることが必要なのでしょうか。

本当は己の「物語」=信じる哲学 を作るべきですが、困難や挫折や批判に耐えて、それを維持し続けるのはとても難しいです。

ところで、ポストモダンを論じるためにオタク文化を取り上げる理由が第1章で書かれていました。ポストモダン的な現象は他のトピックにも現れているので、そこには納得できませんでした。これは、筆者がオタクだったからたまたまオタクを取り上げたのでしょうか、それともこの15年でオタク系に限られていたポストモダン的な現象が他の人々にも広がった結果、オタクだけがポストモダン的だと感じられなくなったのでしょうか。

よく分からなかったこと

かつては欲望を満たすために社会性が必要とされた。現代のオタクも社会性があるので大きな物語は失っていないのではないか、いやそれは違う。という議論の、欲望と社会性の関係。p136

萌えに代表されるようなデータベース型世界を、オタクは何故必要としているのか。シミュラークルの水準における欲求の充足(感動、泣き)だけではいけないのか。p140

重要単語

ポストモダンp44

シミュラークルp41、p124

大きな物語、小さな物語p44、p50

大きな非物語p62 簡単に言うとキャラ萌え、さらに属性萌え

評論読めなかった僕がつまづいていたポイント

高校生の頃は評論が全然読めず、なにが書いてあるか分かりませんでした。高校入学前の春休みに「寝ながら学べる構造主義」(内田樹, 2001)が配られましたが、結局読んだのはそれから5年後の大学2回の頃でした。そんな僕も、最近では少しづつ評論が読めるようになりました。正しく読めているかは分かりませんが、以前つまづいていた点と最近気をつけている点をメモします。タイムマシンが開発されたら、15歳の頃の自分に送信したいですね。

書いてある事が分からない

単語が分からない場合→戻って意味を確認する、ググってみるなど。

単語は分かるが文章は分からない→次の段落あたりまでとりあえず読んでみると、分かりやすく言い換えられている場合もあります。または、その部分の議論は諦めて次へ行くことで、議論全体を振り返って部分の話が分かるようになることもあります。

書いてあることに対する反論が次々に思いついてしまう

それ自体は悪いことではないと思っています。読めている証拠だと思うので、そこで読むのを諦めてしまうのはもったいないです。

最近は思いついた反論をメモして読み続けるようにしています。後で想定される反論に対する回答が用意されていることもあります。自分が思いついた反論に再反論されて納得できた時、一番理解が進むように感じています。

結局何の役に立つか分からない

そもそも評論は役に立たないと思います。「個人的な経験と分析が、少しでも多くの読者を納得させ、それぞれの立場での世の中の理解に役立てば、それに越した喜びはない。」(p144)と述べられていました。